【上京体験談 #001】夢を手放したその先で出会ったのは、モデル×家政夫という新たな自分/沖縄県出身・座安 優汰【#上京】
上京したい人のために、リアルな上京体験談を発信する上京情報メディア『上京タイムズ』。今回は、俳優への憧れを胸に上京した沖縄県出身・座安さんの上京ストーリーをお届けします。
上京した人の中には「なりたい自分」を思い描いて東京に来た人も、多くいることでしょう。しかし変化のスピードが速い東京では、街だけではなく自分自身が変わっていくのも自然なことです。
そうした中で「夢や目標を持って上京したからには、必ず実現しないといけないのだろうか?」「途中で違う道を選ぶことは、挫折になるのだろうか?」といった迷いにぶつかることもあるかもしれません。
座安さんの上京ストーリーからは、そんなときの自分との向き合い方のヒントが、きっと見つかるはずです。
■プロフィール
座安 優汰(ざやす・ゆうた)
沖縄県那覇市出身。1999年生まれ、24歳。2018年、専門学校への進学を機に18歳で上京。現在はモデルを軸に家政夫とのパラレルキャリアで活動する。今回の撮影で身につけている作務衣とエプロンは、家政夫の仕事の際に着用しているものだそう。
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俳優への憧れと圧倒的な好奇心で上京。沖縄とのギャップに驚きの連続だった。
——まずは、座安さんの上京のキッカケについて教えてください。
上京したのは18歳の春で、建築の専門学校へ進学するために上京しました。上京の動機は、外の世界ってどうなっているんだろう?という圧倒的な好奇心でしたね。
あとは当時、沖縄で少し芸能事務所にお世話になっていたので、俳優に憧れて芸能活動をしてみたかったことも理由のひとつです。
——もともと建築に興味があったのですか?
建築もそうですが、思えば昔から芸術的なものが好きでした。幼い頃に親戚の新築祝いに行ったことがあって、それが本当に立派な家で。それを見て「僕も大きくなったらこれぐらい大きな家を作るんだ」みたいなことを祖母に言ったら、それを喜んでずっと話してくれていたんですよね。
そうした原体験に加えて、高校生当時バイトしていたカフェを運営していたのが建築事務所で、そこの社長さんとの距離感が近かったこともあり、進路についても相談して「建築なら資格も取れるからいいんじゃない」とアドバイスをいただいて。それで建築の専門学校に進むことにしました。
上京したときのために、高校を卒業するまでの間バイト代を15万円ほど頑張って貯金しましたね。
——上京することについて、ご家族の反応はいかがでしたか?
とくに反対もなく、東京の学校に進学するならいいよという感じでした。父は寂しがり屋なので、将来のために東京に行くのはいいけど単純に親としては寂しい、と。母は行くならきちんと目的を考えて行きなさい、という感じでした。
——そこから無事に進学が決まり、上京して初めて住んだ街はどこでしたか?
専門学校が大田区の蒲田だったので、学校から徒歩15分ほどの場所にある学生寮に入りました。水回りなどは部屋にないものの、個室がもらえて、食堂があって寮母さんがいて、という感じの寮です。
本当は一人暮らしに憧れていましたが、最初は寮のほうが安心だからという両親の意向に沿って、寮でしたね。蒲田は飲み屋が多い雑多な街なんですけど、賑やかで毎日が祭りみたいな感じで、僕は好きです。
——蒲田に住んで、専門学校の友達とはどのような場所で遊んでいましたか?
東京に出てきた当時は渋谷や原宿に対する憧れが結構あったので、その辺りでショッピングをしたり、カフェに行ったりしていました。ザ・東京なスポットで浅草なども行きましたし、蒲田は川崎も近かったのでよく行きましたね。大きなショッピングモールや映画館もあるんです。
僕の印象に残った東京のスポットとしては、まず明治神宮。すごく参道が長くて大きな木も多いし、沖縄にはそうしたスポットがないんです。日本らしさを非常に感じて衝撃を受けました。あとは歴史も好きだったので、江戸城跡なんかも「ここで歴史が動いていろんなことがあったんだな」としみじみ感じましたね。
——上京した当時、驚いたことや地元とのギャップはありましたか?
めちゃくちゃありますよ。まずは、建物が高すぎること。沖縄は台風や米軍などの関係もあって、ものすごく高い建物がないんです。東京駅付近や渋谷なんかに行くと、沖縄より2倍も3倍も高い建物がたくさんあって。それにまず驚きましたね。
次に、人の多さ。那覇まつりという地元で一番大きな祭りがあるのですが「渋谷って毎日那覇まつりなの?」みたいな(笑)。
それと、歩いて他県に行けることは本当に衝撃でしたね。沖縄から他県に行くとしたら、海路か空路なので。多摩川を越えた瞬間、東京から神奈川になることに感動しました。
あとは……油みそおにぎりが食べたくなってコンビニに買いに行ったんですけど、何店舗回ってもどこにも売っていないんですよ。そこで調べて初めて、沖縄限定だったことに気付いたときは驚きました(笑)。
卒業後、コロナ禍で大混乱の社会へ。東京で好きなことをしているはずなのに苦しかった日々。
——2年間の専門学校を卒業してからは、どのように過ごしていましたか?
僕が卒業したのは2020年の3月、ちょうど新型コロナが流行し始めたときでした。当時は俳優をやってみたいという夢があったので、俳優の勉強をしながらフリーターのような感じで過ごしていましたね。
専門学校の卒業前から芸能事務所のレッスンに参加していて、そのときアクションのレッスンをしてくれていたスタジオの方が「もし良かったらうちで現場出てみない?」と声をかけてくださって。卒業後は、そのままそのアクションスタジオにお世話になりました。
家は蒲田から川崎に引っ越しをして、板橋にあるスーツアクターの稽古場までは片道1時間半くらいかけて通っていました。
平日は家の近くの100円ショップでバイトをしつつ、夜はスーツアクターの稽古。家と稽古場が遠いので、帰宅すると深夜0時半くらい。そして土日は、住宅展示場やスーパーなどのイベントで戦隊モノのパフォーマンスをするという生活をしていました。
その後、2020年の年末に稽古場のある板橋に引っ越したんです。100円ショップのバイトはそのタイミングで辞めたのですが、年を跨いだ2021年が上京してから一番キツい時期でしたね。
——2021年の年始といえば、ちょうど2回目の緊急事態宣言が出た時期ですね。
そうなんです。年始に沖縄に帰省していたこともあり、戻ってから新しいバイトを探そうと思っていたのですがどこもバイトを募集していなくて。応募しても連絡が返ってこなかったり面接もされないまま不採用だったりで、これはまずいぞと。
加えて、イベントも当然できないのでスーツアクターの仕事もなくて。結果、1ヶ月半ほど仕事がない時期がありました。そこまで多くもない貯金を切り崩す日々で、このままではコロナ禍の時代に殺されるなと思いましたね。
——そのピンチから、状況が変わったのはどのようなことがキッカケだったのでしょうか。
この状況をどうにかしないといけないと考えたときに、 自分は何が得意で何ができるのか?これからの時代は何が来るのか?といったことを考えたんです。
そのときふと、数年前に2番目の兄(※座安さんは4人兄弟の3番目)が東京に遊びに来たとき「優汰は家も綺麗だし料理も美味しいし、家事代行のバイトをやってみれば?」と言われたことを思い出したんです。
時代の流れとしても、コロナ禍のリモートワークで在宅の時間が長くなったことや、飲み会や通勤が減ったことを受けて、QOL向上のためにお金を使う人が多くなるのではと考えました。
あとは自己紹介で「家政夫です」と言ったらめちゃくちゃおもしろいじゃないですか。それで、家政夫の仕事をやってみようと思ったんです。
そこから2月の頭ぐらいに家事代行のプラットフォームに応募して、講習と筆記・実技試験を受けて合格後、家政夫としてデビューできたのが3月の頭ぐらいでした。
——家政夫としてのスタートは順調でしたか?
いえ、最初はなかなか依頼が来なくて焦りました。主婦歴の長い方と20代前半の男性なら、ベテランに頼みますよね。なので最初は、近所でオープニングスタッフを募集していたからあげ屋のバイトと掛け持ちしていました。
家政夫の依頼が増え始めたのは、4〜5ヶ月経った辺りからですね。やってみて非常に達成感がある仕事だと感じましたし、さまざまな依頼主様に出会えるので、好奇心旺盛な自分には合っていました。
——スーツアクターの仕事が休業になったあと、芸能活動のほうはどうでしたか?
実はちょうど家政夫とからあげ屋のバイトの掛け持ちが始まった頃に、ダンス&ボーカルグループの研修生をやらないかという話をいただいて、やり始めたんです。
楽しくもあったのですが、仕事との両立はあまりにハードスケジュールで、体力的にも精神的にもキツくて。そのような日々が5ヶ月くらい続いた頃、レッスンの途中で体調を崩して早退してしまったことがありました。
その日が、自分にとって大きな転機となります。帰宅してから「なぜ自分は好きなことをしているはずなのに、こんなにも幸せを感じていないんだろう?」と、改めて自分と向き合ったんです。
そこで、かつての自分が描いた「こうなりたい」「こうあるべき」という像に縛られて、ここ数年を生きてきたことに気が付きました。
遡れば俳優を目指し始めたのも、高校生のときダンス部を引退後、地元の大きなオーディションに宝くじ感覚で参加したらいいところまで行ってしまい、沖縄の芸能事務所にスカウトされたので好奇心で飛び込んだことがキッカケでした。
でも「なぜ俳優になりたいの?」と聞かれたときに、自分で腑に落ちる理由が言えなかった。これは自分の夢ではなくて、チャンスがあったからそれに乗っかっていただけだなとわかったんです。
東京にいる「今」の自分は、本当はどうありたいのか?どう生きたいのか?ということを、僕は全く考えていなかった。そこでようやく、本当はもっと自分のペースで生きて行きたいのかもしれないと気が付いたんです。
その1ヶ月後ぐらいに、ダンス&ボーカルグループのプロデューサーに謝って研修を抜けて「夢だと思っていたもの」を手放しました。
東京は、冷たくない。街にも人にも確かな温度がある場所。
——現在はモデルとして活動されていますが、ダンス&ボーカルグループを抜けた後どのようにしてモデルのお仕事が始まったのでしょうか。
それ以前から撮影の被写体をときどきやっていたのですが、不思議なことに俳優の夢を手放した後から、少しずつ撮影の依頼が増え始めたんです。
以前は言われた通りにやって身体を貸している感覚でしたが、どうしたら作品が良くなるかを考えて、自分なりのベストを積み重ねるうちにモデルの仕事も増えて行きました。それにつれて自分の仕事に対する当事者意識や責任感も、より確かなものになっていったと思います。
今までは多分、モデルの仕事をやっているときもキツかったんです。これで食べられるようにならないといけない、これで稼がないといけないという強迫観念がありました。
ただ、内省したときに自分の考え方が変わったことや、家政夫としての収入もあるという安心感もあってか、今はモデルとしていいパフォーマンスができるようになったなと自分で思います。好奇心旺盛な自分の性格からして、一つの仕事よりも複業という働き方のほうが合っていて、バランスが取れるんでしょうね。
——今後、この東京という街でチャレンジしたいことがあれば教えてください。
突拍子もない話かもしれないですが、 創作活動にも挑戦してみたいと考えています。幼い頃から絵を描くのが大好きで、絵本を描いてみたいという憧れがありました。
実はここ数年、東京の街を歩いて得たインスピレーションや、いろんな人と会って得たアイデアなんかをずっとメモ帳にストックしていて、寝かせているものがあるんです。
それをそろそろ、具現化させたいという思いが最近強くなってきて。友達が原宿で個展をやっているのを見て、僕もやってみたいなと思ったんです。個展で絵を展示したり、絵本を試しに何冊か作ってそこで販売してみたり、そういうことも近々やってみたいですね。
——近況を踏まえて、沖縄のご家族に伝えたいことはありますか?
東京に来た口実通り、建築の仕事に就いたり、今をときめく俳優として活躍したりという自分には今なっていないけれど、それでも今の僕はとても楽しいし、幸せだよって伝えたいですね。
上京当初に思い描いていた道からは外れても、東京では想像以上に楽しい経験やいい経験ができています。自分らしい道を歩めるよう東京に出してくれた父と母には、本当に感謝ですね。
——最後に、上京したいと考えている方々にメッセージをお願いします。
東京は型にハマっていない人であっても受け入れられる、自分らしく生きられる街だと思います。僕みたいにフリーでモデルも家政夫もやっていますみたいな人間でも、みんな第一声で「すごいね、おもしろいね」と興味を持ってくれる。
もし僕の地元で同じことを言ったら「何それ?正社員じゃないよね、大丈夫?」と、180度違う反応をされてしまうと思います。東京は、何者であってもいい街なんです。
あと、東京は思っているほど冷たい場所でも怖い場所でもないです。人が多すぎてみんなに関心を持つことはできないから、それが無関心だと映ると冷たく感じる人もいるかもしれません。
でもこの街のどこかには必ず、その人にとっての陽だまりみたいな居心地のいい場所があって、そこには温かい人たちがいるよと伝えたいですね。
※本記事の年齢や所属などの情報は、取材当時のものです。