東京の秋をフィルムカメラで捕まえた思い出

東京の秋をフィルムカメラで捕まえた思い出

2024年もあと1ヶ月半ほど。「2024年中にやりたいことリスト」を作成したわたしは、現在着々と消化している。その中のひとつに「フィルムカメラで秋を捕まえる」という項目があったので、先日カメラを持って公園を散歩してきた。

東京は自然が少ないというイメージがある人もいるかもしれないが、案外そこら中に公園があるし、大きな公園へ行けば豊かな自然と触れ合える。季節ごとの草花に出会えてとても癒される。

地元で暮らしていた頃の自分は徒歩5分の距離でも車で行くのが当たり前の生活だったので、日常の中に「散歩」という営みが追加されたのは、非常に大きな変化だった。

わたしが使っているフィルムカメラは、機械式でフルマニュアルのミノルタ「SR-1」というもので、大のカメラ好きだった祖父の形見のカメラだ。

昭和の時代を写していたこのカメラも、令和になっていきなり叩き起こされ、まさか東京に来て仕事をさせられるとは思ってもみなかっただろう。驚かせてごめん。

かつては壁一面の棚にぎっしり詰まっていた祖父のカメラや機材であったが、他のものはどこに行ったのかも今ではわからない。わたしにできることは、このカメラでわたしの見る世界を、わたしの感性で切り取ることだ。

祖父はわたしが未就学児だった頃に事故で亡くなってしまったのでほとんど記憶はないが、わたしには祖父の血が流れているなぁと、このカメラに触れているとなんとなく感じるのである。

今回、わたしはお日様の光を多く撮影していることに気がついた。曇天が多い地域で育ったわたしにとって、お日様は東京にいることの象徴だ。

上京してきて2年が経つが、いまだに晴れた日には「東京に来て本当によかった」としみじみ思うし、晴れているだけで人生って素晴らしい、などと思ってしまう。大袈裟かもしれないが、それくらいお日様の光は人に大きな影響を及ぼすものだとわたしは思っている。

やっぱり自然に触れるのは、いいものだ。赤色、緑色、黄色、茶色、紫色……世の中ってこんなにもカラフルなんだなぁと実感する。

そういえば、子どもの頃、四季ごとの草花や昆虫の図鑑を見て、知らない世界に触れるのが大好きだった。今思えばあの図鑑も、祖父のものだった。

カフェという「空間」が好きなわたしは、普段は断然イートイン派だが、この日はホットラテとお芋のマフィンをテイクアウトして、公園のベンチで食べてみた。

スマホは触らず、ひたすら風と光を感じながら、マフィンをほおばり、ほんのり甘くてほくほくのお芋に「秋だねぇ」などと感じながら、ぼーっとしていた。ただただ五感に任せたその時間は、頭の中がクリーンアップされていく感じがした。

行き交う人々やワンちゃんを眺めながらベンチに座っていると、きらきたしたものがふわっと視界に入ってきた。しゃぼん玉だ。

夢の中みたいな一瞬の出来事だったが、シャッターが間に合ってよかった。右上からふんわり差し込むお日様の光と、さまざまな色の木々もとっても綺麗で、この日撮影した中で一番好きな写真になった。

ベンチから立ち上がってまた少し歩いてみると、燃えるような紅の葉っぱがとても美しかった。10月下旬にハロウィンが終わり、11月に入ってからはクリスマスどころか、お正月飾りまであちこちに同居している。

まだ暖かいのか寒いのかよくわからない気温の中、半袖Tシャツをもうしまってもいいのか迷っているというのに、正月のことなんてまだ考えられない。秋スイーツだって、まだ楽しみ尽くしたとはいいがたい。あぁ、秋ってどうしてこんなにもすぐに行ってしまうんだろう。まだ行かないでよ。

都内のきらきらした街中にいると、いまだに旅行のような気分になってしまうこともあるが、公園の中にあるのは人々の生活であり、今わたしもその営みの中にいる。

公園のランニングコースを走るような健康的な生活は送れていないけれど、わたしもこの東京という街の一部として、息をしているのだ。なんとなく、そんなことをふと思った。

「こんなにいろんなものを撮影したのに、何も写っていなかったらどうしよう」と思いながら、フィルムを現像に出した。よかった、ちゃんと、わたしが見た秋を捕まえられていた。

スマホカメラと違い、何枚も気軽にバシャバシャ撮れないフィルムカメラはまだ少し緊張してしまうけれど、これからも大切に、ときどき一緒に連れ出してみたいと思う。

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